essay

vol.7定価0円のペットくん 2005年3月6日
vol.6よくできました 2005年1月30日UP
vol.5あがり湯は地中海 2004年12月26日UP
vol.4ボイルドソーセージ 2004年12月12日UP
vol.3 容疑者 2004年11月28日UP
vol.2 マイホーム・イン・トスカーナ 2004年11月21日UP


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vol.7 定価0円のペットくん


 テレビCMでかわいいチワワを見るたびに、「犬が飼いたい!」と思う。ペットショップをのぞいてみたものの、チワワ50万円、一番人気のトイプードルは80万円も。ブームの去ったシベリアンハスキーさえ20万円。高い!何回イタリアに行けるだろうか?旅行で値段を計るとは、どうやら私はペットを飼う資格はなさそうだ。
 ある秋の日、わが家の玄関先にあるバラの鉢植えの、枯れ気味で茶色くなった茎の影に、一匹の殿様バッタがいた。もうすぐ冬なのに、「アリとキリギリス」によるとキリギリスは確か。殿様バッタは冬を越すのだろうか?それともある日、土の上で冷たくなってしまうだろうか?  
 それからというもの、玄関先に出るたびに、寒いけど大丈夫?と心の中で声をかけてみたりしていた。
 正月休みを実家で過ごし、家に戻って来ると姿が見えなくなっていた。不在中にたまった新聞でバッタのテリトリーを侵してしまっていたようだ。よそへ行ってしまったのか?それともとうとうと心配していたら、柱にからみついたジャスミンの葉の陰にしっかりつかまっていた。
 バラとジャスミンを行ったり来たりしながら、毎日、いってらっしゃい、おかえりを言ってくれいた。
 ある日、スクーターに乗って駅まで行こうとしたときのことである。前の篭に虫のとまっている気配があった。赤信号で停車した時、のぞきこんでみると、あの殿様バッタだった。
わぁ〜、どうしよう。なんで、こんなとこにとまってんのー?おとなしくバラの影にいればよかったのにぃ〜。急いでいたので、バッタのために引き返す余裕などない。途中下車してどこかの茂みに新たな住まいを見つけてくれればと思った。
 ところが、バッタは必死で篭にしがみついている。風の抵抗を受けないように少しずつ篭の内側へと移動して落ちないようにしている。このまま駐輪場まで一緒にいくつもりなのか?ガンバレ!もうちょっとだ!と、バッタが気になってスピードが出せない。しかも、完全にわき見(?)運転だ。バッタの心配をするより、自分の方がよっぽど心配だったかもしれない。
 なんとか無事、駅の駐輪場に着いた。自転車にひかれる前に、茂みに行きな。野良猫にも気をつけるんだよ、と声をかけて電車に乗った。
 仕事を済ませて戻ってみるとビックリ。まだバッタはいた。よ〜し、このまま家に帰るよ。しっかりつかまってな!とスクーターを動かした。動き出すと、また、もぞもぞと位置を移動し始める。スピードの出ていないうちにと思ったのか、大きく脚を踏み出したとたん足を滑らせたのか、ボトッと落ちてしまった。あっ、どうしよう。よっぽど引き返して拾おうと思ったけれど、自然の摂理、バッタの人生。後続の車にひかれないように、達者で暮らしておくれ!と願った。
 ちょっと寂しくなった玄関先に、しばらくすると今度は小さなカマキリが現れた。
 50万円のチワワもいいけど、自然に居着いたペットってのもかわいいものだ。世話もいらないし、なかなかイイかも!
(二〇〇三年七月)
エッセイ集『火曜日の森』(中日文化センター「自分史・エッセイ講座」自由テーマ)より



vol.6 よくできました


 小学校の低学年のころ、図画工作や作文などの採点には「たいへんよくできました」「よくできました」「ふつうです」「がんばりましょう」「もっとがんばりましょう」の五種類の評価がされているスタンプが押されていた。
 確か一番評価の高いものは、左右均等に葉の付いた枝が弧を描いて文字を丸くつつみこんでいる月桂樹をモチーフにしたものだった。
    私が初めてもらったものは「よくできました」で、桜の形が二重になっていて、花びらの間から下の花びらがのぞいていた。ちょうど八重桜のような豪華さがあった。他のスタンプの形も見てみたくて、覗いてまわった覚えがある。「もっとがんばりましょう」は丸の中に文字が入っているだけで、もらってもうれしくない。他の教科はさっぱりだったが、図画工作に関しては“月桂樹”をよくもらっていた。でも二番目にいい評価である“さくら”の方が、もらったときは残念な反面、楽しい気分になった。
 スタンプは同じことを繰り返すために便利な道具なのだが、押す力によって太くなったり、かすれたり、二重になったり、表情をもっている。慌てていたり慎重だったり、押す人の性格やその時々の状態がわかるような気がする。とりわけ桜のスタンプが二重押しになってしまうと、八重桜が二倍の”十六重”になり、またうんと華やかになる。私はそのさくらの形のスタンプほしくてほしくて何軒か文房具屋を捜したが見つからなかった。あの当時は業務用のものをどうすれば手に入るのか、術をまったく知らなかった。
 大人になってデザインの仕事をするようになってから、何度かあのさくらのスタンプ風マークを、好んでデザインエッセンスとして取り入れた。が、いざ描くとなると意外に難しい。曲線のとり方で随分表情がかわってしまいなかなかあの理想的な形になってくれない。分度器とコンパスを駆使して花びらを一枚書き、軸を起点に七十二度づつ回転させて作る。それをコピー機で縮小や拡大を交互にしていくと、線がだんだんボソボソしてきてスタンプらしくなるのだ。四苦八苦して一日がかりで作ったその桜の形は、次の出番のために今も大切に取ってある。
 今ではコンピューターが普及して、あっという間に桜でも何でも作ることができる。図形をいろいろ集めたソフトもあって、桜の形もたくさんあり、便利になった。  私の仕事のパートナーのコンピューターには”さくら“のスタンプを押してあげよう。一番評価の高い”月桂樹”は、あの”さくら“のかたちのスタンプにあげたい。自分自身には丸のかたちの「もっとがんばりましょう」をポンっと押さなきゃ。
(二〇〇一年四月)

エッセイ集『火曜日の森』(中日文化センター「自分史・エッセイ講座」テーマ/桜)より



vol.5 あがり湯は地中海


 二〇〇一年の春、イタリアは異常気象に見舞われた。三月末にシチリアで40度を超える気温が続いたかと思えば、翌週は冬でも雪の降らないナポリの南で、何十年ぶりかに雪が降った。
 そんな中、毎年恒例となった私のイタリア旅行の最初の行き先はヴルカーノ島。シチリア島の北東に点在するエオリア諸島の一つで、火山島である。港に着くや、イオウの臭いが漂ってくる。イオウが付着した黄色い岩があちこちに目に付く。
 国全体が世界遺産のような国、イタリアにしては珍しく歴史的建築物がない。そのためか、夏のバカンスシーズン以外はほとんど人がいないようだ。海岸沿いにはコンドミニアムや別荘が建ち並び、のんびりと夏のバカンス客がやってくるのを待っている。
 海の側に天然温泉があり、水着を着て500リラ(約30円)で入ることができる。安い。だが、着替えるところがないので、島に宿泊していないとできない楽しみだ。人気のある隣のリパリ島ではなく、この島での滞在を選んだ大きな理由でもある。
 ホテルで着替えて20分ほど歩くと温泉に着く。陽がかげると水着では寒い。
 温泉は大きなドロの水たまりという感じで、ものすごく生ぬるかった。湯に浸かって体を温めようと思っていたのに、期待はずれだった。
 寒い国から来たドイツ人達は顔にドロをつけてみたり、キャッキャとはしゃいでいて楽しそうにしている。それとは対照的に、寒そうに縮こまって浸かっている私たちに、イタリア人のおじさんが「こっちに来い。ブクブク泡の出てるところは暖かいぞ」と教えてくれた。確かに少しはマシだったが、暖まるにはほど遠い温度だ。

 早々に引き上げようとしたが、ドロを洗い流すシャワーがなかった。困っていると、さっきのイタリア人のおじさんが手本を見せてくれた。
 ザッブ〜〜〜〜〜ン!!  
海に飛び込んだのだ。まだまだ海水浴の楽しめる水温ではないのに。
 波打ち際で海水をちょびちょびかけてドロを流していると、おじさんは「あそこの泡の出てるところに行くとお湯になってるぞ、行って来いよ」。お湯っていったって、風呂をライターで沸かすようなもの。絶対冷たいに決まってる!と思いつつ、言われたとおりザッブ〜〜〜〜〜ン!ツ、ツメタイジャン、ヤッパ。
 震えながら海からあがると、今度は地面から蒸気の出てるところで温まるよう勧めてくれた。どうせまた、と思いながら足をあてた。すると今度はやけどするほど熱かった。
 その数日後、やっぱり風邪をひいて熱を出し、寝込んでしまった。こんなことで風邪をひくなんて、もう無茶ができるようなトシではないのだ。と自覚たものの、逆に、「今のうちに」と、次の旅への勢いがついてしまったのである。     (二〇〇二年七月)

エッセイ集『火曜日の森』(中日文化センター「自分史・エッセイ講座」自由テーマ)より



vol.4 ボイルドソーセージ


 私の母はちっちゃくてかわいい。子供の頃、友達に「おかあさん、かわいいね」と言われ、少し自慢に思った覚えがある。
 母は福井県生まれ。大野市という福井市から電車で一時間ほど山間部の、小さな盆地の町で生まれ育った。母の実家は祖父の代から始めた仕出し屋で、宴会場や小規模な結婚式もできるスペースもあり、週末や日祝日はかなりの忙しさだったらしい。五人兄弟の長女である母は当然のように子供のころから店を手伝い、自分のことより店の仕事を優先させる生活を送っていたという。そして年ごろになり、花嫁支度もほとんどされないまま見合いで決められた相手と結婚をすることになった。 
 そんな母は優しく、働き者で、我慢強く、力持ちでもある。
 母の手はデカイ。決して大きくはないがデカイのである。ちょうど大きさも長さも、ボイルされてパンパンになった荒びきソーセージが五本ついてるようだ。この頃は老人性関節炎とやらで、ソーセージの何本かはそっぽをむきだしている。
 ソーセージたちは働き者で器用だ。唯一苦手なことがあり、それは缶ドリンクの栓が開けられないこと。でも、箸やフォークを使ってなんとか開けている。
 私が中学を卒業するまでは、部品工場でビス止めをし、油まみれになりながらハンダゴテを上手に扱っていた。たまに内職のボタン付けもしていた。
 ソーセージ達は料理も手際よくこなし、特におにぎりはすばらしい連携プレーでほどよい固さと大きさのものを次々と生産していく。裁縫や編み物もそれぞれがきっちり役割をこなし、浴衣もスイスイ作ってしまう。でも、一度もエナメルの帽子をかぶったことはなく、宝飾品で飾られることもなかった。
 私が高校に入るころ、母は海苔屋で海苔作りをする仕事についた。冷たい水を扱うせいか、ソーセージたちにはよくバンソウコウの腹巻きが巻かれていた。
 ある日、私が家に帰ると、いつも弱音をはかない母がしょんぼりしていた。理由をきくと、海苔にバンソウコウが入っていたとお客さんからのクレームがあったというのだ。母は自分のせいかも知れないと責任を感じていた。
 しかし、私はあの腹巻きがどんな様子で海苔にくっついていったのか。海苔に漉き込まれてペッタンコになっていたのではないかと興味深々で、母にはすまないが根掘り葉掘り聞いて、とうとう笑いだしてしまった。ノーテンキに笑っている娘を見て、母も笑い出し、この出来ごとは笑い話として思い出になった。
 母はこの春六十三歳になった。パートではあるが、まだ元気に海苔屋さんで働いている。腫上がった手を見ながら「この指が曲がったらもう仕事ができない」と時々寂しそうにつぶやく。
 そうだ、今年の母の日には、頑張りやのソーセージ達をどこかの温泉で茹でてやろう。
(二〇〇一年四月)
エッセイ集『火曜日の森』(中日文化センター「自分史・エッセイ講座」テーマ/母)より



vol.3 容疑者


 「すみません、ウソついてました」と、古市容疑者はあっさり自白した。

 私が夫を置いて、一人でイタリアに行っている間に事件は起こった。
 私と夫は結婚した翌年、夫の強い希望で、二人でイタリアのトスカーナ地方の小さな町を訪ねる旅をした。それがきっかけで、私はイタリアにはまり、その後は休みのとれない夫を置いて、私一人で毎年のようにイタリアに行くようになった。夫は自分が火を付けた責任を感じてなのか、ボクが行けない分、楽しんでくるようにと、いつも快く送りだしてくれている。
 私の両親には”理解ある良き夫“として評価が高く、信頼も厚い。それでも、両親は私がそのうち三行半を言い渡されるのでは、と心配している。  私の不在中に夫が寂しがって浮気でもしてはいけないと、食事に誘ったり、アレコレと気を遣い、夫は夫で断わるのは申し訳ないと思い、お互い気を遣う。そんな気遣いをさせないために、ある年、黙って行くことにした。
 「電話があったらどう言えば?」と不安がる夫に、「適当に言っておいて」と、私は気軽に言い残して旅立った。
 三週間の旅を終え、帰宅すると、実家に電話するよう、厳しい口調で夫に言われた。
 さっそく電話すると、母が出た。
 私の旅行中に電話をかけたのだが不在であり、どこに行ったのかと聞いても夫は「知りません」と言うだけである。
 知らないとはあまりにも様子がおかしい。心配していたとおり、とうとう、追い出されたのか?それにしても行き先もわからないとは妙だ...。心配で心配で、一晩中眠れなかったと言う。
 そして翌晩父が、わが家の裏にある池の向こう側に陣取ったのだそうだ。庭の土が掘り起こされた形跡はないか。私の夫が人間サイズの大きな袋を持ち出すなど、不審な動きはないか。そのまま一晩張り込んだのだった。
 そして明け方、父はとうとう「家宅捜索」をすべく、インターホンを押した。
 なんと、信頼していたムコ殿は一転して、「娘殺しの容疑者」になっていたのだ!
 眠そうに起きてきた古市容疑者は、父の顔を見るなりあっさり自白した。
 「すみません、ウソついてました。ウチのヤツ、イタリアに行ってます」
 事件の顛末を母から聞いて、私は大笑いをしてしまった。行方不明の娘を必死で捜す父の姿...にしては...。早とちりで大袈裟なのが父らしい行動ではある。
 母は「おまえの明るい声が聞けてよかった」と何度も言った。申し訳ない気持ちとありがたい気持ちでいっぱいになった。もう、二度と内緒では行かないと心に誓った。
 大笑いした手前、心配してくれてありがとうが照れくさくて言えず、
 「ちゃんと生きてるよって、父さんに言っといて」とおどけて言うと、
 「父さんにも声を聞かせてやって」と「真犯人ちよえ」の母は笑いながら答えた。 (二〇〇二年二月)

エッセイ集『火曜日の森』(中日文化センター「自分史・エッセイ講座」テーマ/愛を感じた時)より



vol.2 マイホーム・イン・トスカーナ


 三年前の夏の終わり、家を建てた。
 会社をやめ、フリーのグラフックデザイナーとして自宅で仕事をするようになって一年。パソコンと周辺機器、本に資料。リビングは修羅場と化し、机の角っこでパソコンの電磁波を浴びながら食事をするのには限界がきていたからである。
 本来ならば都心に事務所を借りたいところだったのだが、夫の「そんなことしたら、帰って来ないに決まってる。体のいい別居じゃないか」の言葉に、渋々新居探しが始まった。
 それまで借りていたところは庭付きメゾネットタイプのテラスハウスだった。一階と二階を物探しで往復するのはもうこりごりだったし、庭は雑草でぼうぼう。だから私は、今度はフツーのマンションがよかった。逆に夫は、管理費がもったいないとか、駐車場代がバカにならんとか言いだし、なかなか意見が合わない。
 いろいろ探しているうちに「分筆可」の土地のチラシを見つけた。早速見に行くと、その土地はブドウ園だった。すぐ横には農業用のため池がある。向かいもブドウ園。言ってみるなら名古屋郊外の「トスカーナ」。
 トスカーナ風というだけで、すっかり心変わりしてしまった。ここに家を建てよう!夫も乗り気である。
 ならば家もトスカーナ風にと考えたが、毎年のように私がイタリアに行っているので、十分な蓄えがない。家を建てたからって旅行をやめる気なんてさらさらない。と、ちょうどハウジングセンターで土地の形状に合わせて建てる格安住宅を見つけて、少しだけ土地を買って、とんとん拍子で決めてしまった。
 安いだけあってか、あっという間に家が建った。そしてあっという間にあちこちに問題が出てきて、半年たった頃、二階の床にそっとおいたビー玉がころがるようになった。少し急ぎ過ぎたようだ。

 名古屋のトスカーナも楽ではなかった。向かいのブドウ園は春の絶好のふとん干し日和に消毒薬をまく。洗濯物も干せない。横の池からは大量の蚊が湧く。ゲジゲジが進入してくる。お初にお目にかかる虫の種類と量の多いこと多いこと。入居して一年もたたないうちに、もう引っ越ししたくなった。
 そんな頃、池にポツンとピンクの大輪の花が咲いた。蓮だ。なんだか得した気持ちになった。蓮は池の表面を覆い、今年は毎日二十輪以上咲いている。
 そして、消毒薬ではご迷惑をおかけしましたと、採れたてのブドウが届くようになった。そのブドウ園の「紅瑞宝」は巨峰より甘さ控えめでさわやかな味だ。歯ごたえもあり実のしまり具合はパスタでいうアルデンテという感じ。すっかり「紅瑞宝」のとりこになってしまった。
 「紅瑞宝」の収穫時には我が家でパーティを開き、お中元も「紅瑞宝」と決めている。
 家の造りはイマイチだが、池の蓮と向かいのブドウ園は、今では我が家の付加価値を上げる大事なお宝になっている。 (二○○二年七月)

エッセイ集『火曜日の森』(中日文化センター「自分史・エッセイ講座」テーマ/私の宝物)より



vol.1 イタリア人になりたい!


 「ダメって言うなら離婚してやる!」と、決死の覚悟で夫を残してのイタリア行きを宣言したのは6年半前の夏のことだった。
 担当した仕事での、度重なる徹夜仕事で疲れ切った日々が1年ほど続いていた。そんな私を見ていた夫は、このバクダン発言をする前にあっさり承諾してくれたのであった。
 その旅は2週間の短期間ではあったが、フィレンツェで工芸学校を営む校長先生の郊外の丘の上にある自宅で、滞在しながらイタリアの伝統工芸を学ぶという体験型の旅だった。
 庭で3度の食事をし、マーブル紙やテラコッタを作った。もちろんシエスタ(昼の休憩時間)ではお昼寝をした。人々が集まる広場では地元の人たちとのふれあいもあった。
 そして、伝統工芸体験はもとより、イタリア人の国民性に私は惹かれて行った。
 イタリア人はお客がいてもシエスタにはきっちり休んでしまう。かきいれ時の日曜日もお休み。夏のバカンスは2ヶ月もとる。儲けよりも休みを大切にする潔さが心地よかった。
 失業率が高く、ろくに仕事に就けなくとも、話し、食べ、飲み、毎日を楽しそうに過ごしている彼らをみていると、時間に追われて24時間365日、仕事ために自分の時間を犠牲にしている生活に疑問を感じた。
 グラフィックデザインという職業柄、締切り重視。徹夜は当然。家に帰れず何日も風呂すら入れないことだってある。学生のころ夢見たカタカナ職業の、これが実状なのだ。
 自分の時間を確保するためにそれから1年半後、私は会社をやめフリーになった。
 それでも、やっぱり優先順位の1番は仕事になってしまう。
 ダメダメッ!断るべき仕事はきっぱり断ろう。少しづつイタリア人に近付くのだ!

エッセイ集『火曜日の森』より

(C)chiyo uchida furuichi